おかえり、

マイホームと聞かれて、思い浮かぶものはなんですか?



わたしがマイホームと聞かれてあたまにフッと浮かぶのは、ギルバート・グレイプのポスターのような、緑色の丘の上に、赤い屋根のおうちがぽつんと建っている、そんな風景です。
そんなおうち見たこともないし、実際にあるかどうかも知りません。
でもマイホームって聞いておもうのは、あのポスター見たくパステルとかクレヨンで描かれた様なあったかい景色。ドアを開けると「おかえり」と迎え入れてくれる存在。自分という存在がまるっと受け入れてもらえる場所。


マイホームというのは自宅という意味だと思いますが、どちらかというと私にとってマイホームとは概念で、「心が帰るべき場所」だと思っているので、そういう意味でマイホームはわたしにとって今住んでいる場所ではありません。そこまでのあったかい思いを自宅には持っていません。でも自宅は好きです。



話は変わりますが、わたしはずっと一人でエイトのことを見てきました。大事な相方はいて、多くの幸せを彼女と共有してきましたが、エイトに対する多くの思いを言葉にして人にぶつけることはありませんでした。
だからエイトのことを好きな自分を外から形付けてくれるものは何もなくて、いつも自分で内側から形作り、定義し、居場所を作っていました。
「エイトのことを好きな自分」は、エイトを見ること、すばるくんを見ることだけで確かめてきました。どう好きなのか、わたしはエイトのことをどのように思っていて、どのように向き合っているのか。


エイトと自分の間に何もなかった私にとって、エイトと向き合うことは自分自身の内側と向き合うことと同義だったのだと思います。




一人で部屋にいる時の自分が、基礎となるデフォルトの自分。そこから「社会」に対してわたしはわたしをカスタマイズして外に出ていきます。どれももちろん本当の自分です。でも心の部分だけは、一人でいる時の自分が一番ホンモノに近いのだと思っています。


Twitterを始めて、エイトを好きな人と交流する機会ができました。わたしは初めて、エイトおたくの中に飛び込み、エイト好きの自分を外から見ることができるようになりました。コンサートで、「eighter!」の声に嬉しくなり、そこに集まったeighterの存在に涙し、名前も知らない人と手をつないで、いっぱい好きだと思った空間の、その個に向き合い始めました。でもそれはもうeighterと向き合うことではありませんでした。eighterであることはその人のほんの一部の個性です。私はエイトと向き合う時に、自分をカスタマイズすることはしないけど、エイトファンと向き合う時には、カスタマイズすることもありました。


でも裏を返せばそれはきちんと人と交流しているということです。やはりわたしとエイトはアイドルとファンという一方通行な関係なのだと思いました。




でも、そこにあるのは自分のエイトに対する思いだけで、嘘がない本当の自分なんです。隠す必要なんてない。だってエイトが見てるのはいつだってわたしじゃない。eighterたちなんだもん。






エイトが歌う「マイホーム」を私はどうしても好きになれませんでした。エイトはまだ旅の途中で、帰ろうとか言わないで欲しかった。とか思ってました。


でも気付いたんです。わたしは、エイトがマイホームについて歌うことにしっくりきていなかったのだと。だって私はエイトにいつだって帰っていたのだから。帰りたいのだから。

おかえりって、いつもの様に両手広げて待っててくれるのがエイトです。わたしは何も隠さず、ありのままの自分で、エイトが好きだと言って飛び込んでいくだけです。



いつか私がマイホームの言葉に見合うようなあったかい家庭を持つまでは、わたしにとってこの曲は、エイトに送りたい曲です。



それまでは、ずっとです。