少しだけ、やさぐれてる

エムステのマイホーム見ました。二週連続で同じ曲だったこと、結果オーライと言うしかない。
短期間で同じ曲を歌う姿が見れるのは、ツアーくらいしかないから、本当に貴重だったと思う。ああいう曲調は特に。




すばるくんは今、すごいスピードで変わっていっている。変化なのか成長なのかはわからないけれど、確実に。
今までだって、彼は変化してる。もちろん、柱は変わらない。だけど今の変化は、結構わたしの中で、大きい。


今のそういう彼があるのは、もちろん今までがあったからで、言葉を借りるなら、ずっと育てていた花が、やっと咲いているのだろう。
すばるくんが歌詞を書く際”花”にこだわっているのは色んな説(大袈裟!)があるけれど、どのみち自分の感性をベースに書いているだろうから、少しはすばるくんに通ずるものがある、と私は信じている。



マイホームさんの写真の為に、ジャニショにいってきたのだけれど、ぱっち〜マイホームまでのすばるくんが同じ大きさで、何の差もなく並べてあった。から、純粋に見比べることができた。


もう違う。ぱっちのすばるくんと、マイホームのすばるくんでこんなにも違う。1年くらいしかたってないのに。
すばるくんが手を伸ばして歌っている理由すら変わった気がする。はじめは反発しているような、誰かに手を伸ばしているような、そんな手。でも最近は、誰かを救いたいような、伝えたいような、そんな手に見える。


おたくをしていると、時の流れをまとめて見てしまうけれど、濃い密度で確実に、時は流れている。今も。
エイトを見ている時私は、エイトを好きになったばかりの時の自分にいつでも戻っている気がする。だから変化にびっくりする。怖がる。だけどわたし自身も変化している。



変わっていくから寂しい、うれしい。すばるくんの移り変わりによって何か自分に変化があるかと思ったが、そんなので降りてたらとっくにやめている。


多少おこがましい表現になるが、わたしはエイトにはまっているわけでも、ブームがきているわけでもない。
もうわたしにとって当たり前なのだ。唯一無二なのだ。今更趣味みたいに、テストみたいに、やりきったからとか区切りがついたから落ち着くとかそういうものではないのだ。と思う。
だからといって、やっぱりおたく事は、心の余裕がないとできない。でも、その心の余裕がない時を乗り越えてまた戻ってくると、よりいっそう好きだと思う。ほっとする。そういう存在にエイトを置いてしまった。



こんなことを偉そうに書いてどうしたいのだろう。最近、”好きの形”をたくさん見すぎて、自分のはどうだろう、と見てみたくなったのかもしれない。
”好きの形”を見つけるだなんてこまこましたことをやる自分がちょっぴり嫌いで、好きだ。
でも、”好き”は”好き”でいいと思う。反面、もっと違った言葉で表したいという欲もたっぷりある。



ブログだから断定形式で書いているけれど、ほんとかどうかなんてわからない。私はこう思うっていうだけである。っていうか美化して、妄想も付け加えて、酔っているだけである。
他人のことを断定して書くのはびくびくする。たとえすばるくんでも。彼と私は恋人どころか知り合いでもない。そういう人について断定して書くことに私は傲慢さを感じてしまう。




それでも書きたい時がある。少しだけ傲慢になって、私だけの、を掴みたいときもある。