なんとなく、を広げる

まだ見ぬ未来の彼女のためにプレゼントを買ったまるちゃん。もし、ほんとにそれを渡す時が来たら、彼女さんの気持ちは今のまるちゃんへの愛情分の嬉しさだろうけど、まるちゃんはそれよりきっとずっと嬉しい。
彼女の知り得ない彼女との思い出を一足も二足も先に嬉しそうに作っちゃうまるちゃん。そういう所がまるちゃんがまるちゃんたる所以なのかなと思う。






ギルバート・グレイプはストーリーだけでも十分に濃い。あの世界観を表現するだけでも、作品として大いに成立するし、まるちゃんはその作品の中で精一杯ギルバートとして生き抜くだけできっと十分だった。だけどまるちゃんはギルバートという人間、そしてそれをとりまく人々、世界、それを理解してギルバートの世界で生きただけでなく、何かまたわたしたちの知らないもう一つの世界も一緒に育ててたんじゃないかなと今になって思う。それが何かはぜんぜんわからないのだけれど、まるちゃんはそこでも懸命に生きた。きっとまるちゃんの中だけのお話。そしてその世界で得た事、感じた事も全てギルバートで出していたんじゃないかと思う。私は大阪の千秋楽だけ見たのだけれど、まるちゃんギルバートになりきってた!とか、演技うまかったね!とかそういうお芝居としての感想が全然湧いてこなかった。ただただ衝撃で、「まるちゃんはここで一体何を感じてきたのか」ということばかり頭の中をぐるぐるした。


それくらいまるちゃんがギルバートに張った根っこは大きくて、幹も太くて、はっぱもまるちゃんを覆い隠しちゃうんじゃないかってぐらい多かったから。仲の良い一座とか成長した舞台とかっていう一つの「終わりを迎える舞台への思い」じゃ説明しきれないものをまるちゃんに感じたから。



舞台が始まって終わるまでで、まるちゃんがギルバートと、それに自分で付随させたものたちを千秋楽にて「丸山隆平」の中に完全に取り込もうとしている姿、そして取り込んだ瞬間を見た気がした。


まるちゃんが最後の最後で、自分自身を抱きしめたのを見たときなんだかすごくぎゅーっとなって涙がでた。お疲れさまのハグのようでもあったし、ギルバートありがとうな、そしてこれからもよろしくな、のハグであるようにも見えた。
まるちゃんが、自分の中の膨大な感情をひとつの形にしておさめるまでの流れを初めてちゃんと見た、気がした。その姿はとてもかっこよくて、尊くて、愛しかった。




わたしはすばる担なので、まるちゃんに対してはいつもすばるくんを通して見ている。
すばるくんは心のアンテナが敏感で、あらゆるものごとをキチンと拾える人。そこに新たに自分なりの解釈とかをつけるというより、本当に感じたまんまのことが、言葉が、そのままなぜか説得力を持って出てくる人。


一方まるちゃんも心のアンテナは敏感なんだけれど、ものごとの表と裏とはまた別に、自分であれこれ意味や気持ちをつけくわえちゃうような人。そして感じたことを言葉にして紡ぐ時は、すごくすごく考える人。




同じ言葉が二人から出てきたとしても、まるちゃんはすばるくんよりいっぱいいっぱい考えて、こねて形にして出してきているのだと思う。その「いっぱいいっぱい」の部分はきっと知ることのできない部分で、丸山隆平の「謎」な部分だと思うんだけれど、まるちゃんの謎は謎のままがいい。どのみちわたしはまるちゃんが好きだ。見えてるだけのまるちゃんでこんなにも好きなのに、謎な部分までわかってしまったら大変だもの。その謎解明は、まるちゃん担さんにまかせます(笑)


ギルバート・グレイプに関して言いたい事はいっぱいあるけれど、わたしはここらでやめておく。それが気持ちいい。




すごく言うのおそくなりましたが、まるちゃん、舞台「ギルバート・グレイプ」の座長、お疲れさまでした。おかえり。